日記

2025年12月26日(金)

来年度の授業に向けていろいろ書いた。ふと、先生の一人に言われたことを思い出した。ひとが普通の言葉をきちんと使って、物事がきちんとわかるようになってほしい、という私の願いは、一方で言葉を酷使すること、他方で言葉を厳密に統制することにつながるが、後者を主軸にすることはまさしく権威的な人文学者の仕草である、と。

最近私がやっているのはまさにそういうことだと思った。だけど私としては、私がやっている程度の型通りのことはできるようになった上で、そのやり方から離れて言葉をもっと自由に酷使できるような人間が見たいなと思う。

いや、それだけではないかもしれない。私が私自身の手で型に嵌めた言葉は、そもそも私や友人が自由に使ってしまった言葉をいずれも後追いで捕まえたものだから。私自身でも言葉に無茶をさせているし、親しい人々にもそのような言語の使用を促している。