日記

2026年1月9日(金)

友人が書いた文章を送ってもらって、ひとり傷つく。それは、具体的なもろもろの事象を枠組みで単純化しないような、細部の明瞭さを目指したような文章だった。友人は私と同じ分野の研究者であるゆえに、自分の文章との違いが明白に感じられた。

友人の文章を否定的な仕方で言い換えてみれば、それは語りそれ自体としての意義を明示的にせず、現実の曖昧さや緩さがそのまま取り集めて提示されている、とも言えるのかもしれない。しかし、ひるがえって、必然性で飾り立てないような、複雑味のある文章を私が書けない、という自分のつまらなさが自覚されて辛い。

それどころか、そうした散文的な文章をちゃんと読むことすら、私には難しいではないか、と思う。私の見解では、わかりやすい意義や明瞭さなどに支えられていない、散文的な文章を平気で読みこなす人こそが本物の読書家である。私は最低の読書家だ、と思って落ち込む。

かといって私は、息をするように必然性や意義のある文章を書けるほどの直感があるわけでもない。散漫な文章をその都度手をかけて削って整えているような気がする。そちらにも劣等感を覚える。

   

そんなことを考えながら、傷つくと傷つけられる、能動と受動は逆になっているけど、同じ事態を指す、と思った。

  

以上の日記を書いた後もうしばらく考えていると、さらに気づくことがあった。素材の複雑さがそのままになっていて、作為的な切断が見えない文章を私が許容できないのは、僕がそのような文章を書いてしまえば他のすべてのフードライターと同じになってしまう、という恐怖があるからだろう。扱う対象から自分が書くものの価値を得られないゆえに、それをきちんと整えることに執着してしまう(もちろん、普通のフードライターのように私の研究対象を書いてしまえば、研究対象それ自体の価値もよくわからなくなるだろう)。よく考えてみれば、この日記でさえ、簡単にであれ素材を丁寧に切り揃えて出す試みとも言える。

こういった怖れなく文章を書ける人が羨ましいとも思った。